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  • 頭で理解するより、み教えに「浸る」ということ

    (西方寺伝道掲示板より)

    【現代の風潮への疑問】
    最近、世間では「頭で理解できないようなことを聞いても意味がない」と、何でも自分の理解度だけで物事の良し悪しを判断する風潮が強まっているように感じます。しかし、すべての物事を「自分の物さし」だけで測ろうとする姿勢は、どこか薄っぺらさを免れないのではないでしょうか。


    【「お勉強」と「道」の違い】
    自転車の乗り方:乗れない人に対して、言葉で微に入り細に入り乗り方を教え、完璧に頭で理解させたとしても、その人がすぐに乗れるようにはまずなりません。それよりも、理屈はさておき、実際に自転車にまたがって何度もこけて練習した方が、圧倒的に早く身体に馴染むものです。

    日本古来の「道」:剣道、柔道、茶道など、名前に「道」と付くものはすべて「型」から入ります。最初は訳が分かろうが分かるまいが、何度も何度も、場合によっては何年も同じ型を繰り返す。そうして身体に型が染み込んだある時、ふと「そうか!」という真の体験に繋がっていくのです。


    【蓮如上人の「籠と水」の教え】
    実は、仏法を聴く「お聴聞(ちょうもん)」の本質もここにあります。『蓮如上人御一代記聞書(八八)』に、このような素晴らしいエピソードが残されています。
    あるとき、ある方が心中に思ったことを蓮如上人に申し上げました。
    「私の心は、まるで籠(かご)の中に水を入れたようなものです。み教えを聴聞している間は『有り難いな』と喜ぶのですが、その場を退くと、水が漏れるようにその思いが消え失せてしまうのです」
    すぐ聞き忘れ、忘却していく我が身を嘆くその人に対し、蓮如上人はこうお答えになりました。
    「その籠を水につけよ、わが身おば法にひてておくべき」
    (籠をそのまま水の中にひたしておきなさい。籠に水を入れようとすれば漏れてしまうが、籠ごと水につけておけば、常に潤っている。それと同じように、自分自身をみ教えの中にひたしておけば、み教えは自ずと身や心にしみ入るものである)


    【「仏道」に身を委ねる】
    私たちは、覚えたか忘れたか、理解できたか否かという「自分の都合」で一喜一憂しがちです。しかし上人は、聞き忘れがちな我が身であるからこそ、仏法の水に常にこの身を浸しておきなさい、そうすれば「法味(ほうみ)がしみ透る」のだと教えてくださっています。
    よく諸先輩方が「み教えは毛穴からでも入ってくる」とおっしゃるのも、まさにこの事でしょう。
    衣服に香水の香りが自然と染みつくように、み教えの環境に身を置き続けることで、無意識のうちに我が身が変容していく――これを仏教では「薫習(くんじゅう)」と呼びます。
    「理解できること」だけを求める浅い知性を手放し、み教えという大いなる海に、穴だらけの我が身を丸ごと浸し続けること。それこそが、古来大切にされてきた「仏道」の歩みなのではないでしょうか。

    その籠を水に浸けよ 蓮如上人御一代記聞き書きより