新たに本堂正面の両脇に掲げられた日本画『睡蓮』。その作者・村田幸子画伯にお話をうかがいました。89歳を越えた今もなお湧き上がる創造への情熱。画伯により紡ぎだされた作品に込められた様々な想いとは。
村田幸子さんインタビュー
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――ご自身の作品が新本堂に掲げられたお気持ちをお聞かせください
何よりも私の作品を掲げて頂けるとは夢にも思っていませんでした。ご縁とは有難いものです。今回のお話は天からの授かりものだと感じています。絵を続けていて本当によかったと思います。
私の嫁ぎ先は浄土宗なのですが、生まれ育った家は浄土真宗なんです。ですから、私を生み育ててくれた亡き父と母が本当に喜んでくれている。このお話を頂いて、なにより始めにそれを思いました。
作品『睡蓮』について
元々は150号(227㎝×181㎝)というサイズのパネルに描いたものです。絵としては非常に大きいものです。しかし、この150号で作品展に出品することが定められていますので、このサイズでのたくさんの創作をしてきました。
西方寺さまのご依頼を頂き、その150号の作品を30号(90㎝×72㎝)の作品として相応しい部分を選んでカット、2点の作品として奉納させて頂きました。
日本画では、岩絵具を使います。その岩絵具だけでは、色をパネルに固着できません。ですから、固着材として「にかわ」で岩絵具を溶いて描きます。岩絵具には、たくさんの種類があります。『睡蓮』に使った群青色でも岩絵具の粒子の粗いもの、細かいものがあります。それらの違いを番号で表します。例えば、群青色1番、2番、3番…などと表し、粒子が粗いほど1番に近く、細かいほど数字が大きくなってゆくという具合です。
この作品も、多くの種類の中から岩絵具を選び、「にかわ」で溶いて描きました。岩絵具を溶くには、にかわの濃度に微妙な調整が必要です。調整を間違えると絵具が乾いた後で、ひび割れができてしまうのです。長年の経験と勘を頼りに作業を進めます。しばらく、絵を描かないと鈍ってしまうくらいに繊細な感覚ですね。
――創作活動で注力される点はどのあたりでしょうか
絵を描く上で、もう一つ大切にしていることがあります。それは、色の深みを持たせること。それには「重ね塗り」が欠かせません。にかわの濃淡を調整したもの、岩絵具の粒子の「粗いもの」や「細かいもの」。
そして、色に深みを持たせるためのアクセントとして「かくし色」といいますけれど、別の色を重ねたりします。違った種類の色をたくさん重ねます。とにかく、たくさん100層ぐらいは塗り重ねますね。
――作品は実際の風景を描かれたのでしょうか
この場所というものはありません。けれども、絵を描く上で日々のデッサンをしてきました。この睡蓮の花も、今までにたくさんの時間、たくさんの場所でデッサンをしました。その時に見た風景がたくさん私の心の中に染み込んでいます。それが作品として形になった感じでしょうか。
――今まで創作を続けてこられた原動力とは
私は一つやるとやめられない性分なんです。とにかく、ずっと続ける。絵の他にも、色々と続けてきたものがありますよ。父の進めもあり、子供の頃からつい最近まで能の舞を続けてきました。病院のボランティアや、週に一度の水泳にも通っています。それから月に一度、薬師寺さんへ妹と写経に通わせていただいています。もう、430巻になる頃です。
続けるということ。これは性格なのかも知れません。しかし、とにかく“続けたこと”がよかったと思っています。絵を続けたことでこうして本堂にも作品を掲げていただけました。能の舞には、腰を据えることが大切だと教えられてきました。今、89歳になりますが、長年、能を続けてきたせいか、水泳をしてもしっかりと泳ぐことができます。
最近では、ボランティアで病院に伺って、私よりも若い方々の体が不自由なお姿をたくさん目にします。これは創作を続けてきたこと、大きな絵を横にしたり寝かせたりして身体を動かし続けてきたことも、自分の健康のためになっていたのだなと感じます。
以前は、ボランティアに伺っても、私がお世話をするという気持ちでいました。しかし、そうではないのだということを感じます。私はこうして身体を動かす機会を頂いていることで、今も元気でいられるのだなと思います。他人のためと思ってやっていたことが、自分の役に立っているのだと、つくづく思います。これは本当にありがたいことです。早く死んでしまうと、年をとった経験をすることができません。89歳になったからこそ感じることがあるのです。
若い頃を振り返ると、そのときは優しくしたと思うことも、この歳から見るとやはり少し冷たかったのではと思うことがあります。これは若いときには思いもしませんでした。今まで生きたからこそ、感じる思いがあるのだな。そして、それは本当に有難いことだなと思います。
今の私はこうして、様々な「天からのお恵み」を頂けました。父と母が生んでくれたこと。89歳まで生きられる立派な身体をくださったこと。そして、私に目をかけてくださる方、すべてに感謝の想いがあります。
村田幸子画伯 紹介
村田幸子さんの父は、ミキモト真珠のデザイン室で図案を制作されており、皇室の婚礼で使用される宝石を担当されたこともある宝飾デザイナーでした。その父の影響で、幼少の頃より画家などの芸術家の方々とも親交があったそうです。しかし、その当時は絵画を鑑賞する側だったと村田さんは言います。転機は、結婚をしてご主人のお仕事で広島の三原市に移り住んだ時のこと。偶然、テレビで観た上村松篁画伯の創作風景に衝撃を受けます。「自らも創作したい」と、すぐに画材店を訪ね創作に必要な一式を手に入れます。さらに、店主に日本画の指導をしてくれる教師まで紹介してもらうのです。昭和37年ごろのことでした。程なく、広島県内で開かれた作品展に出品。初出品ながら、その作品は入選しテレビでも紹介されることとなりました。以降、上村松篁画伯ゆかりの創画会に所属し数多くの作品展に出品。今日まで精力的に創作活動を続けてこられました。